考察

なぜ勧善懲悪は好まれたのか?その意味と誰も紐解かなかった謎を分析

2020-08-04

woman in red long sleeve shirt holding microphone

「勧善懲悪」・・・現代ではあまり聞きなれない言葉かもしれませんが、昔の物語の背景には、この勧善懲悪を含むものが結構多かったのです。

今回はそこに隠された本当の意味を考察していくことにします。

勧善懲悪ってなに?

勧善懲悪は「かんぜんちょうあく」と読み、善(よ)いことを勧めて、悪いことを懲(こ)らしめる、という意味の四字熟語です。

具体的に分かりやすく例えると?

みなさん、半沢直樹やごくせんといったドラマはご存知でしょうか。

物語の軸として、悪いことや意地悪なことをする人たちを真正面からぶっつぶすというところで共通点があります。

これがまさに勧善懲悪と呼ばれるものです。

勧善懲悪が多かったのはなぜ?

これは古くからの日本の国民性が大きく左右していると考えています。

海外からも日本人はよく真面目と表現されます。

ちょっと前は子供に対して「これはいいことだからたくさんしなさい」「あれは悪いことだからマネはしちゃだめ」などと教える親や大人がたくさんいました。

相手が子供の頃からいわゆる善悪の判断を事細かに教えこんでいるわけです。

日本人の真面目さがはっきりと出ている例だと思いますが、親や大人に口うるさく言われただけではまともに聞こうとはしないでしょう。

そこで子供に伝わりやすい形にして刷り込んでいくわけです。

むかしばなしやヒーローものを使う

つまり、物語自体や出てくる言葉の難しさをはぶいて、子供目線で語るものを大人たちは用意します。

それがむかしばなしや特撮などのヒーローものです。

これらの中では常に、悪いおこないをする者が倒され、良いおこないをする者が幸せな生活を送って「めでたしめでたし」「ハッピーエンド」となることを覚えさせるのです。

これは暗に「善いおこないをするといいことが起きる。悪いおこないをすると天罰がくだる」というおそろしくオカルトチックな洗脳で子供をコントロールしていっているといえるのです。

ここに、それを証拠づける事実があります。

実は海外のむかしばなしともいえる白雪姫やシンデレラなどのグリム童話は、日本の子供向けに脚色しなおされているのです。

本来は生々しい部分もある物語を、きれいな聞こえのいい物語に変えているのです。(著書「本当は恐ろしいグリム童話」を注釈)

本の内容によると、その理由は子供のためによくないため。

もし仮にこれらを脚色しないで日本の子供に伝えていったらどうなるか?

今まで大人たちが語り継いできた勧善懲悪が夢物語となり、こんなものはやはり根も葉もないことだったんだ、嘘つきだと言われるのが嫌でそうしたのだと私は思っています。

海外ではグリム童話を脚色していない

red and yellow flowers on green grass field

ここでひとつの素朴な疑問が浮かびます。

日本の大人たちが必死の思いで脚色しなおしたグリム童話。

しかし海外ではそのまま語られているのです。これはなぜなのでしょう。

それは海外の大人たちの教育が、子供たちの本質的な人格形成の部分をしっかりと支えているからです。

グリム童話を読んだことによって子供に悪影響が出るなんて考えてすらいないし、事実そうならないだけの日常的な教育の積み重ねがあるのです。

日本の大人たちが口を揃えて「これを観た子供に悪影響が出たらどうするの」「これを読んだ子供になにかあったらどうするの」と定型文じみたことをいうのはなぜなのか?

これは自分自身の日々の教育の積み重ねに不安があるからに他ならず、単なる責任転嫁、親のエゴでしかないのです

まとめ

最近では子供のネット利用も増えてきているので、「善いおこないをするといいことが起きる。悪いおこないをすると天罰がくだる」なんて理想でしかないということは理解できてしまいます。

また最近の特撮ヒーローものは、勧善懲悪の枠を超えてきています。

「なにが正しいのか?なにが悪いのか?」「誰が正しくて誰が悪いのか?」をあえてはっきりさせずグレーなまま終わらせることも少なくありません。

元々子供向けだったストーリーが高度になり、「あなたが考える正義とは?」「あなたの思うあなたなりの解釈は?」という疑問を投げかけているようにも思えます。

昔の日本の大人たちが頼りきりにしていた、よりどころだった勧善懲悪という理想郷は音を立てて崩れ去っています。

今この現代は、老若男女問わず自分自身が考えて取捨選択や正誤判断をしなくてはならないくらいの情報にあふれ、多様化した社会になりました。

それでも今も昔も大切な部分は変わりません。それが子供たちの本質的な人格形成ができているかどうかなのです。

根づきつづけてきた勧善懲悪という幻想にとらわれ、自分たちのふがいなさを棚に上げ、なにかと周りのものに責任転嫁し続けた歴史。

まさに今このとき、天罰としてそのまま大人たちに跳ね返ってきているのかもしれません。

悪は大人たちだったのでしょうか?もしそうなら、改心すれば善となりうるのでしょうか?

皆さんはどうお考えになりますか?

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