「叱る」と「怒る」って似てるけど、なにがどう違うの?
こんな疑問にお答えします。
今回は、「叱る」ときに必要な要素がなんなのかも一緒に解説しながら進めていきたいと思います。
この記事を読み終わった後、「叱る」と「怒る」の区別ができるようになり、状況に応じて「叱る」と「怒る」を使い分けることができるようになりますよ。
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「叱る」と「怒る」の違い
まず「叱る」と「怒る」がどんな意味なのか、辞書で調べてみました。
【叱る】目下の者の言動のよくない点などを指摘して、強くとがめる
【怒る】不満・不快なことがあって、がまんできない気持ちを表す。腹を立てる。いかる。
引用元:goo辞書https://dictionary.goo.ne.jp/
興味深い結果として、「怒る」のふたつめの意味として「叱る」と同義の意味が載っていました。
これは現代では叱ると怒るとでの使い分けがあいまいになってきていることの表れだと思います。
ということでもっと分かりやすい表現で双方の違いを私が説明するならこうなります。
「誤った言動を理性的に冷静に諭すように言うのが「叱る」、ただ感情に任せて言うのが「怒る」。
例を挙げて深堀りしていきます。
はさみを使っているときにふざけすぎて、近くで一緒に遊ぶ友達にその刃先を向けた子供がいるとします。
それに対してはさみを使っていた子供の母親が「なにをしてるの!危ないでしょ!」と声を荒げたとします。
これが「叱る」か「怒る」か分かりますか?
正解は「分からない」です。
なぜなら、「なにをしてるの!危ないでしょ!」の後に続く言葉がなんなのかが分からないから。
つまり、その母親が「なぜ危ないことをしたらいけないのか」をどう考えていたかによるからです。
その言葉を放ったあとにこんな言葉が続くのであればこれは「叱る」です。
- もしはさみの先が相手の目に入ったりしたら友達は目が見えなくなっちゃうかもしれないんだよ
- もし相手にはさみの先が当たって切れたりしたらすごく痛いし、すごく悲しむんだよ
- 自分がもしはさみを持ってる友達にはさみの先を向けられたらどう思う?
その言葉を放ったあとにこんな言葉が続くのであればこれは「怒る」です。
- 相手がケガしたら私があの子の母親に怒られるじゃない
- 相手がケガしたら私たちがここにいづらくなるでしょ
- なんでそんなことも分からないの
「叱る」と「怒る」が相手に与えるもの
なんとなく分かっていただけたでしょうか?
「叱る」例で挙げたものはすべて「はさみを人に向けたことで次に起こる危険が何か」を教えている、もしくは起こる危険が何かを自分で考えさせています。
これによって子供が学習します。
次にはさみを持ったときには、このことを思い出して同じことをしなくなるでしょう。
友達にはさみを渡すときには、はさみの柄の側が相手に向くように工夫するかもしれません。
あるいは人の立場になって考えるということを常に考えて動くようになるかもしれません。
叱るときは常に「相手の学び」にならなければいけません。
そして間違いなくこれが「しつけ」と呼ぶものでしょう。
対して、「怒る」の例はどうだったでしょうか?
これらはすべて悪い事態が起きたときに自分に降りかかる災難のことばかりを考えていて、子供のことなど気にしていません。
世間的な体裁ばかり考え、自分の思い通りにならないというその場の一時的な感情で自分のエゴを押しつけているだけです。
では、これによって子供が何を学ぶのか?
母親に怒られたくない一心でそのときそのときの母親の顔色をうかがう。
その場しのぎのいい子の自分を演じ続けたあげく本当の自分を見失って、誰にも打ち明けられず迷って悩んでいつか爆発するときがきます。
爆発した後に気づいてももう遅い。信頼関係を取り戻すには多大な時間を要するでしょう。
このように、怒るは常に「身勝手なエゴ」でしかなく、相手にまで悪影響を及ぼす、まさに「百害あって一利なし」の方法なのです。
また、声を荒げたから「怒っている」だと判断した人、必ずしもそうではないです。
単純に声を張らなければいけない差し迫った場面ならそうしなければならないでしょう。
また、逆にどれだけ静かに語りかけようと、はらわたが煮えくり返るような心境で言っているなら相手のためになどならないです。
「叱る」ときに必要な要素
「叱る」を実践するために必要なのは、次に同じようなことが起きたときにその人が同じ過ちを繰り返さないようにすること。
つまり、なぜそうしたらいけないのか、なぜそうしなければならないのかを自分自身の力で考え、判断できるように導くことだと思います。
「叱る」には放った言葉に込められた本人の揺るぎない意志の強さがあると言えるかもしれません。
また、危険の芽をつみとって安全な道を教え導くことが必ずしも「叱る」「しつける」につながるとは限りません。
はさみを手に持つ前にその危険性をどれだけ語り伝えたところで、実際に経験してみなければ分からないことだってたくさんあるのです。
親は経験上、その先にどんな危険があるのかを知っている。でも、子供は経験がないから知らない。
だからといって危険な目に遭う前にその危険を大人がすべてつみとり、危険を未然に回避してばかりしているとしたらどうでしょうか。
親元を離れた後、新しい危険に出会ったとき、危険そのものを予測し、回避する方法は知らないままです。
経験には失敗がついて回る。でも失敗はムダなことじゃない。いけないことでもない。
失敗についての関連記事はこちら。合わせてどうぞ。
→失敗はムダじゃない【「失敗は成功のもと」にする努力が成功のもと】
デコボコ道を避けて舗装された道を歩かせることだけが大人の役目じゃない。
子供が転んでケガをするという危険が予知できたとしても、経験をさせるという意味であえて子供が転ぶところを見守ることも大切。
アドバイスなりフォローなりはその後でも充分なのです。できればヒントくらいでいい。
「今こういう危ない目に遭ったね。じゃあ、今度からはどんなことに気をつけたらいいかな?」
実は、私自身が親からそのような教育を受けてきました。
生活の中で色々な選択肢・分岐点があるとき、母親は決まって「あなたはどうしたい?」「あなたならどうする?」とたずねてきました。
それによってつちかわれたのは、「自分の意志で決めること」「自分で考えること」でした。
大人として道を指し示すということは、こういった人間として身につけていかなければならない機会をつみとるということにもなりかねません。
現代人に圧倒的に欠けている「考える力」は考えないことには養われない。
選択権を子供にゆだねて、考える機会を増やしてあげるのも大人としての立派な務めだと思います。
まとめ
こうしてみてみると、叱られる側と同じく叱る側も成長し続けていかなければならない存在なんだなと思います。
「自分は叱る側の人間なんだ。叱られる側が言うことを聞いてりゃいい」と考えている人はいつか足元をすくわれます。
また、常に成長を考えている人に叱られるのであれば、叱られる側も敬意をもって良好な関係のまま歩んでいくことができるでしょう。
そして、手を差し伸べることだけが教育ではないということも分かったと思います。
「ただ優しく見守る」「子供の意志を尊重する」ことも、とても大切な要素であると言えるでしょう。
最後までお読み下さりありがとうございました。こんな記事も書いていますので読んでみてくださいね。