生活

論破はダサいし損をするからやめたほうがいい【時代に合わない】

2021-06-20

Refutation
ごんざぶろう

論破する力って身につけたほうがいいですか?

こんな疑問にお答えしていきます。

私自身、過去に論破することに全力を注いでいた時期があり、まあまあな勝率でした。

そんな「論破する力が人並みよりはある私」の観点から、「論破する力が必要かどうか」を解説していきます。

結論:論破する力はいらない

ということで、早々に結論から言いますと、「論破する力はいらない」です。

論破がいらない3つの理由

理由は3つほどあります。

論破力がいらない理由3つ

  • 誤った自己肯定
  • 人が離れていく
  • 時代に合わない

ひとつずつ解説していきます。

誤った自己肯定

思っていることを言葉にするのが得意な人は、言葉を使う場面でその能力を見せたがります。

そりゃそうです。言葉にするのが得意なんだから。

料理が得意な人が料理をするときに実力を遺憾なく発揮するように、得意であるからこそ見せたがるのです。

これは自己肯定感を高めることにもつながり、悪いことではないんです。

ただ!

「論破する」ということは、まずなにかしらの議題があって、それについて複数人で討論し、優劣をつけるということです。

つまり、お互いに言葉にするのが得意でもそうでないにしても、「人の考え方」について「どちらが正しいのか正しくないのか」。

あるいは「どちらがすぐれているのか劣っているのか」を判断する場でしかないということ。

これってとても危険なことで、「どちらが論破するか」という結果を出すことが目的の議論ということ。

例えば「そんな考え方もあるね」「こんなときにはこう考えて、こんなときにはこう考えるといいね」といったものではない。

「俺はこんな考え方。あなたはこんな考え方。人によってこんなに違いがあるもんなんだな」といった建設的な議論ではないということです。

分かりやすく極端に例えますよ?

弾を1発だけこめた銃で、順番に1回ずつトリガーを引きあって殺しあうようなもん。

第三者から見たら「お前らなにしてんの?なんの意地の張り合い?」とあきれてしまうような、どうでもいい勝負です。

大切なことなのでもう一度言いますね。

第三者から見たら「お前らなにしてんの?なんの意地の張り合い?」とあきれてしまうような、どうでもいい勝負です。

「自分が正しい」ということを前提に始める、子供のケンカにも劣る行為。

本当に自己肯定感を高めたいのなら、他者と殴り合うことを目的としたものではない、平和的な選択がいくらでもあります。

ところで私、自分で言うのもなんですが、思っていることを言葉にするのは得意なほうです。

男ですが、女性相手の口ゲンカでもまったく問題ない。

言葉にするのが苦手な人は言葉にするのが得意な女性に対して拳が出ますが、私には必要ない。

私の言葉は拳の何倍もの殺傷能力を持つからです。

だから。

経験上、ときに言葉がどんな凶器よりも鋭い武器になると分かっているから。

「論破を目的とした議論」は必要ないと言い切ります。

人が離れていく

一瞬の自己肯定感を満足させるためにおこなう論破は、もっとも大きなマイナスをその人にもたらします。

それは、周りの人間や信頼を失うことです。

人を惹きつけたくておこなった論破が、皮肉にも周りの人たちを自分から遠ざけ、信頼すらも失う結果に導く。

また、論破をしている人を見て気持ちがいいなんて思う人はごく少数ですしね。

論破を得意としない人たちが論破を得意としている人に自分自身を投影させて虚栄心を満足させているにすぎないからです。

だって、実際にあなたの目の前に友人として論破しまくる人がいたとしたら、どう思いますか。

ずっとこの人と付き合っていきたい、友達でいたいと思うでしょうか。

イヤですよね?

外野からながめて楽しむだけなら大丈夫でも、いざ目の前にそんな友達がいると思ったら、それだけでウンザリしますよね。

仮にあなたが論破を得意としない人だとしても、あなたや誰かが損をすることはありません。

プライドが高い人ほど、自分が論破されることが恥や負けだと思うでしょう。

ですが、論破直後にすごいと思われることがあっても、結局最後に後ろ指をさされるのは論破した人のほう。

そもそも論破されることが負けだと決めたのは誰でしょう?

自分自身がそう思っているだけではないですか?

論破した側だって、気持ちよさだけが残っているわけじゃない。

「また意味のない言い争いをしてしまった」という後悔とモヤモヤ感は残ります。

自分の望んだ結果になっているというのに、後味の悪い思いをする。

つまり、論破した人もされた人も、それを聞いていた人も、損しかないんですよ。

人と人の結びつきを失う。誰もがただただ疲弊して終わる。誰ひとりとして得をしない。

こんなにむなしいことは他にないでしょう。

時代に合わない

最近「多様性(ダイバーシティ)」という言葉をよく耳にしますね。

日本では、広い意味で「生き方」や「考え方」の多様性というものを認めていこうという風潮です。

自分の考え方ややり方が一番正しいものだと決めつけて他人に押しつけることは、この多様性というものを尊重できていないことにもつながります。

多様性(ダイバーシティ)に関して詳しく解説した記事はこちらにあります。合わせてどうぞ。

「生き方」が放つエネルギー【LGBTQIAに見る多様性】

つまり、論破がいいものであるという考え方は、この今の時代に合っているとはいいがたい事実であるということになるのです。

まあ、論破好きな人からすればその考え方もまた多様性を尊重しない考え方だとなるでしょうが。

ただの水掛け論。揚げ足の取り合い。屁理屈の応酬。これこそが論破の実態でもあります。

一瞬の幸福感にとらわれてすべてを失うよりも、いろんな人のいろんな考え方を見聞きしたほうが、結局は自分の引き出しを増やすことになり、人生を豊かにしてくれる。

豊かな人が広げる人の輪は、さらに周りの人を豊かにするプラスの連鎖を作り出す。

なによりも、「楽」なんですよ。そして楽しくなる。

先ほど私が言ったような、「そんな考え方もあるね」「こんなときにはこう考えて、こんなときにはこう考えるといいね」。

「俺はこんな考え方。あなたはこんな考え方。人によってこんなに違いがあるもんなんだな」という考え方。

まさに「多様性を尊重する」を体現したもの。

別にね、「ケンカしないで仲良くしろ」「衝突しないようにしろ」というわけではないんですよ。

人の生き方や考え方は人それぞれ違って当たり前。

そうですよね?

だから、意見の違いがあるからこそ、どんな意見なのかを知ることがとても大切。

でも、「違う意見」を突っぱねる必要ってありますか?ということ。

人の生き方や考え方は人それぞれ違って当たり前。

100人いれば100とおりの生き方や考え方がある。それでええやん。

「自分の中のものさし」は自分の中にしかない。それを軸にして生きるのは大切なこと。

でも、自分の中のものさしは必ずしも世の中や他の人の常識ではないし、それを押しつける権利なんて誰にもない。

「自分は自分、他人は他人」だし、自分と他人を比べたり勝敗をつけたりするのは苦しい。おろかなこと。

踏みいっちゃいけない領域に入ることなく、良好な人間関係を築いていけるなら、それは「多様性を尊重するということの理想形」なんですよ。

とはいえ、多様性という言葉ですべてを片付けてしまうのは私は好きではないので、時代に合わないという表現以外の言い方をするのであれば。

「論破をしなければ、自分も周りの人も得しかしない。」

そういうことです。

まとめ

あなたの周りで「論破が得意で、しかも人がついてくる」という人はいるでしょうか。

おそらく、非常にまれなことなのではないかと思っています。

検察官や弁護士であれば別にいいんですけどね(笑)。

自然な形で楽しいライフスタイルを選んで過ごしてくださいね。

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