日本でよく見られる「差別」の根底にあるもの、原因ってなんだろう?
僕たちはそれに対してどんな対策をしていけばいいだろう?
こんな疑問にお答えしていきます。
さて、これから例を挙げてお話をしていくのですが、学校などでよく学ぶ機会があるものとしては、人種差別があるかと思います。
しかし、まずそもそも私たちが人種や宗教といった切り口から差別という問題に向き合うのは危険すぎると判断します。
なぜなら、日本には人種や宗教によって差別するような土台や歴史がないからです。
ですから海外の差別は根深い歴史や風習があってのものでまったく別のものと考え、今回は日本人でもわかるなじみ深いもので解説していきます。
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日本の差別に関わる歴史や風習
先程「海外の差別は根深い歴史や風習があってのものなのでまったく別のものと考えるべき」と言いました。
とはいえ、日本には日本人しか分からない根深い歴史や風習、海外でいうところの人種や宗教にあたるような部分があるはずです。
まずはそこに立ち返ります。
みなさん「村八分(むらはちぶ)」という言葉をご存知でしょうか?
調べるとこんな意味になっています。
1 江戸時代以降、村落で行われた私的制裁。村のおきてに従わない者に対し、村民全体が申し合わせて、その家と絶交すること。
「はちぶ」については、火事と葬式の二つを例外とするところからとも、また「はずす」「はねのける」などと同義の語からともいう。
2 仲間はずれにすること。
引用:goo国語辞典 https://dictionary.goo.ne.jp/
これ、現代に合うように、現代人が分かるように私が意訳してみますね。
「世間一般から見れば場違いなくらいのローカルルールを適用して、数の暴力という名の正義で多数派が少数派をつぶすこと。」
文章だけを読めば多少過激な考え方ではありますが、ご了承いただきたいと思います。
村八分の説明に「村落(そんらく)」とありますが、要は都会から離れた、相対的に見て人口や家屋が少ない地域のことです。
昔の推理小説なんかに多く出てきますが、その村の人間だけに適用するルールで村民を縛りつけ、それを破った者には村全体で「なに勝手なことしてんだ?」とネチネチと疎外していくわけです。
これは大人数が住むような都会ではありえません。
多種多様な生活スタイル、人間、物が存在するところでこんなことをしたって誰も従いませんからね。
現代の都会でこんなことをしたらどうなるかを考えればわかりやすいですね。
「は?なんでお前のワケワカラン言いぶんに付き合わなくちゃなんないの?」となります。むしろそれが当たり前です。
もっとリアルに言えば、相手にもされずに無視される。
逆に社会からはじかれるのは自分になるでしょう。
ですから、都会の喧騒から離れ、少人数で長い間ひっそりと暮らしているからこそ成り立つルールだと言えます。
周りには知っている顔ばかりで、知らない人などいないというくらいの。
そういった「小さな社会」「小さなコミュニティー」だったからこそ起きたことなのです。
差別?いじめではないのか
このような歴史や風習は今でこそ減ってきてはいるものの、なくなってはいないのです。
前述したような、世間一般から見たときに「おかしい」とすら感じる風習。
「え?そんなことがまかりとおってるの?」というような場所をコロナ禍のニュースでも見かけられます。
コロナ禍なんて抜きにして、もっと分かりやすいところで言えば、ママ友の集まり、学校のクラス単位など。
シャットアウトされた閉鎖的な空間で、外部に決してに気づかれないようにおこなわれていること。
これが残念ながら認めざるを得ない日本の歴史や風習です。
しかし、これは本当に差別と呼ぶにふさわしい事象なのでしょうか?
人種や宗教といった、個人ではどうすることもできない部分で悲しい紛争まで起きている地域もある中で。
この日本の村八分の体質は「差別」と呼ぶにふさわしいのか。
辞典にあった「私的制裁」。私の意訳の「数の暴力という名の正義」。
よく考えてください。
不条理ともいえるローカルルールで通常受けるはずもない苦しみや痛みを、よってたかって大勢で味わわせる。
これ、ただのいじめではありませんか?
差別なんて言葉など使っていいはずもない、もっと程度の低いただの「いじめ」ではありませんか?
ネットでの「誹謗中傷」という言葉もよく聞くようになりましたが、コロナ禍で夜の繁華街に出歩く人と医療に従事している人。
どちらもコロナウイルスを持っているかもしれないし、周りに広げてしまうかもしれない。
ですが、自ら好んで感染しやすい場所におもむく人と、仕事としてコロナに苦しむ人を救うことを生業としている人は同じなのか。
同じカテゴリにひっくるめて、節度も忘れてただただ下品に非難するのは違うのではないか。
ネットという仮想空間でリアルで会わないからこそ、名前も顔も明かしていないからこその状況に気を大きくした一部の人間。
その本人たちも無意識の中で数の暴力という名の正義を振りかざし「誹謗中傷」の域を超えた「いじめ」をおこなっていく。
こんなものはもう「差別」なんていう呼び方をするにはあまりにもお粗末な「いじめ」以外のなにものでもないと私は思うのです。
いじめ根絶に必要なこと
これをなくしていくのには、日本の村八分気質をどうにかするしかありません。
つまり大勢でなければ誹謗中傷すらできないようなもろい精神をまず立て直す必要があります。
誰かの発言をきっかけに何かを主張し始めるのではなく。
周りの出方を見ながらネチネチと始めるのでもなく。
本人が本人の意志で揺るぎない精神で勇気をもって発言し始めることです。
顔と顔を合わせ、1対1になっても気持ちをぶらさずに発言することができ、自分が正しいと心から思う主張であれば、それが仮に周りからは「誹謗中傷」だと言われても相手には届くことでしょう。
自分が顔と顔を向き合わせて自信をもって主張できるだけのものを持っているということの証明なのですから。
まとめ
日本人にある根底の気質が理解できるのであれば、それに対しての改善も進めていけるはずです。
日本人の気質を表すエピソードで興味深いものがあります。
沈没船ジョークというものがあって、質問に対しての答えがその国の国民性をそのまま表してしまうというもの。
その質問とは、「沈没する船から全員を海に飛び込ませるにはどうしたらよいか?」。
例えばアメリカ人が乗っている船なら「飛び込めばヒーローになれる」とあおれば飛び込む。
イタリア人が乗っている船なら「飛び込んだらモテる」とあおれば飛び込むといった感じ。
では乗客が日本人ならどうあおれば飛び込むのでしょうか?
答えは「見てみなさい。みんな飛び込んでいる」です。
足並みを乱すことをよしとしない、むしろそれが美徳とされてきた日本人の気質を見事に表す答えなんですね。
「個性を尊重する時代」なんて言われながらも、結局きわだった個性がつぶされるのは、「みんなと違うことをしているから」に他なりません。
もちろん、これは悪い方向にだけではなく、いい方向に活用することもできる一面ではあります。
しかし、現代でも根強く残る「日本の差別」の問題を根底からつくがえすために必要なもの。
それは、周りの目を気にしながら動くのではなく、周りに同調するのでもなく、自分の意志で動く。決断すること。
そして、周りの私たちがそれを認める存在でいること。
こんなふうに、ほんの少しずつでも日本をいい方向に変えていければと思います。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。