最近よく「多様性」って言葉を耳にするけど、なにがそんなに大切なの?
こんな疑問にお答えしていきます。
「人間は同じ人間同士であっても、内面や外見が違う。違って当然であり、違っていても仲間同士である。」ということ。
そんなことを掘り下げて解説していきます。
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人をくくるカテゴリ
近年、多様性や多様性を認めることが大切になっている理由は「人を分けるカテゴリがこまかくなってきているから」です。
例えば、私たちが生活する現代の環境や生活基準は以前に比べて大きく変化しています。
分かりやすいところで言えば、衣食住。
昔は着るものと言えば「着物」でしたが、欧米文化を取り入れてきたことで「洋服」がメジャー。
男性っぽい格好をする女性、スカートをはく男性などの大きな変化もありますね。
食べ物に関しても、日本特有の質素な「和食」というものから、「洋食」を始めとした様々な国々の食べ物を口にすることができる時代です。
住むことに関しても、同じ場所に居を構える人がいる一方で、いろいろな国々を転々としながら暮らすノマドワーカーと呼ばれる人もいる。
要は考え方や選択肢が以前よりも格段に増えたことに他なりません。
しかも、とりわけ大切になってくるのが、目に見えるところよりも目に見えない「精神」や「心」の部分。
ここが非常に幅広いカテゴリを持つようになりました。
もちろん、多様性という点で身体障害や難病というものも外せないのですが、目に見えないからこそ周りの人に理解されにくい。そんな一面を持っています。
LGBTQIA
「多様性」ということを語る上で、この上ない例えになると思っているものがあるので、そちらを用いて解説していきます。
それは「LGBTQIA(性的少数者)」です。
一般的に、人間の体の性別・心の性別は同じであり、性的指向(恋愛対象)は異性になります。
例えば、男性(女性)として生まれてきた人は心の性別も男性(女性)であり、性的指向は異性である女性(男性)に向きます。
この枠に当てはまらない例を「性的少数者」と呼んでいます。
それぞれの頭文字を並べて表現したもので、順にレズビアン(L)・ゲイ(G)・バイセクシャル(B)・トランスジェンダー(T)・クエスチョニング(Q)・インターセックス(I)・アセクシャル(A)。
今回は詳しい解説はしませんが、レズビアンの指向としては、心身の性別が女性・対象も女性。
ゲイは心身の性別が男性・対象も男性。
バイセクシャルは男女の性別を問わず、対象が男女両方。
トランスジェンダーは体と心の性別が異なる人。対象は個人により違う。
クエスチョニングは自分の心身の性別や対象が明確でない人。
インターセックスは体の性の発達が一般と異なる人。例えば、体の性別は男性だが体の成長は丸みを帯びてきたり、乳房が育ってきたりする人。
アセクシャルは性的指向が誰にも向いていない人。
さて、どうでしょうか?
性に関しての多様性だけを見てみても、これだけのカテゴリがある。
これから先、カテゴリが増える可能性だってある。
さらに言ってしまえば、もっとこまかく分けようとすればできてしまう。
例えば、あなたの目の前に女性の衣装を着た人がいるとする。
これだけでもいろいろなパターンが考えられる。
もちろん、女性が女性の服装をしていると考えるのがごく自然で一般的。
でも、ここまでのお話で気づく人もいると思いますが、そうでない場合ももちろんありますよね。
例えば、男性が女性の服装をしている。
でも見た目だけではその人が「トランスジェンダー」なのか、「ドラァグクイーン(女装家)」なのか、「男の娘」なのか、趣味や遊びでそうしているのか分からない。
見た目だけでは、心身の性別なんて分かるわけがない。
だから、なんです。
多様性やバリエーションを頭に叩き込んだとしても、本当に理解できるところまでは実は距離があるのかもしれません。
本人のお話を聞いたり、事実を知ったりした上で判断しないことには、間違ったとらえ方をしてしまうでしょう。
ときに本人に一生癒えることのない傷を負わせたり、私たち自身もハラスメントの言いがかりを受けたりする原因になることだってありえますよね。
性的指向にしても同じこと。
男性が男性を好きになる。女性が女性を好きになる。
あなたがそれに対してどう思うかは自由です。
でも、そのこと自体を否定する権利はだれにもありはしない。
そして、一般的な性的指向を持つ私たちには理解しがたいものであるとしても、仮に目に見えなくても、認めてあげることはできるはず。
性的少数者以外にも少数派で一般的には理解されにくいものはたくさんありますが、認めてあげることはできるはずなんです。
それが「多様性を認める」ということなんだと思います。
具体例:フレディ・マーキュリー
ここで、実際の性的少数者の例を挙げて解説していきます。
映画「ボヘミアンラプソディー」では、ロックバンド「QUEEN」のボーカル、フレディ・マーキュリー氏がゲイであった事実が描かれています。
彼が活躍した1970年代から1980年代、当時はまだ性的少数者の認知が不十分であり、いわれのない差別を受けることが分かりきっていた彼は、その事実をひた隠しにしました。
日本の出来事ではありません。比較的オープンな欧米ですら、このようなことがあった。
現在の日本がまさにこの当時の欧米の偏見を持つ危険性をはらんでいます。
様々な多様性を正しく認識し理解するには、私たちが持っている「常識」を「取り払う」必要性があります。
具体例:青木歌音
少し前の海外のお話になってしまったので、現在の日本の例を挙げていきます。
私が個人的に応援している、Youtuberの青木歌音さんです。
歌音さんはトランスジェンダー。
男性として生まれてきましたが、性別違和を感じ、心が女性だと気づき、性別適合手術を経て現在に至ります。
性的少数者は少数者であるがゆえに、仮に差別を受けていないとしても生活の中で息苦しいと感じる点は多くあり、悩みや不安をかかえる人は多いようです。
特に男性から女性になった人はそれだけですべて満たされるということはなく、精神的に参ってしまう人も多い。
そんな中でも、歌音さんは生来持っている「おふざけ気質」や「前向きさ」で視聴者に元気や笑いを届けてくれています。
といっても、多くの性的少数者が感じる悩みや不安がないわけではありません。
そういったマイナスの部分を公開していったところで視聴者にはなんのプラスにもならないと分かっているから。
楽しんでもらえないと分かっているから。
また、トランスジェンダーがどういったものなのかを広めていくきっかけにもならないと分かっているからです。
視聴者にはできるだけ気持ちを楽にして、おもしろい雰囲気で楽しんでもらい、またトランスジェンダーとして悩んでいる人たちの道しるべになろうと尽力している。
だから、シリアスな体験談もたまにまじえながら、当事者として私たちに知るきっかけを与えてくれています。
立ち返って、なぜ私が青木歌音さんを応援したい気持ちになったのか。
考えてみると、「生き方」のエネルギーなんだと。そう思います。
私たちは一般的であるがゆえに、往々にして生き方が中途半端になってしまいます。私も例外ではありません。
歌音さんは少数者であるかもしれないけど、少数者にしか感じることのできないつらさや経験を重ねてきた。
その経験がマイナスの方向に傾いてしまう人もいるけれど、歌音さんは信念をもってつらさを超えてプラスのエネルギーに変えてきた。
「人がどう思おうと感じようと関係ない。私は私。私は私がするべき生き方をつらぬく。」
普段見せるおちゃらけた姿の向こう側にその力強さを感じた。
そのプラスのエネルギーを私は肌で感じたんだろう。
だから応援しようと思った。
だって、「私は私」という強い信念をもって生きることに健常者も障害者も性的少数者もないでしょう?
歌音さんには、本来、人間が持っている「生きる」という強いエネルギーがある。それはフレディも同じ。
「性的少数者」が珍しかったからじゃない。
キレイだったからでもない・・・ん?まあ、それもあるかもしれませんが。
うらやましいと思うほどの生きることへの満ちあふれるエネルギーがあったから。
ひとりの人間「青木歌音」に魅力があったから。
だから。だからね。
「人間は同じ人間同士であっても、内面や外見が違う。違って当然であり、違っていても仲間同士である。」
心からそう思うんですよ。
まとめ
「精神」と「心」という部分で、最近は「うつ病」「発達障害」「ADHD」なんて言葉を耳にする機会が多くなりました。
「原因がどこにあるか」・・・それは大切なことですが、もっと大切なのは、これらの病を「知ること」。
「気持ち次第だ」「甘えだ」と考える前に一呼吸おいて、「明日は我が身だ」「どんなことがつらいのか」「どんなサポートができるのか」。
そんなところにポイントをずらして考えてみると、現代病ですら、「人間同士は仲間だ」ということに気づくきっかけになる。
また、そういった周りの人たちの心持ちが、当事者の「生き方を考える余裕」を与え、再びエネルギーを生み出す一歩になります。
多様性を認識し理解することは、未来の私たちを助けることにもつながるのです。