日本はいつもそうだ。
考え方が極端なのだ。
著しくどちらかに偏っていて、バランスのよさなど皆無。
そしてなにかの拍子にひとたび火がつけば、わらわらと固まって異口同音に唱え始める。
正直、辟易している。
コンテンツ
ある新聞のヒトコマ
今年3月8日は「国際女性デー」だったそうだ。
それにともなって、新聞労連ではメディア業界で働く記者たちが組織内で感じるジェンダー表現についてのアンケートをおこなっている。
264名、うち66%が「配慮のない表現を見かけ、違和感を抱くことがある」と回答。
注目点として、「配慮のない表現を見かけ、違和感を抱くことがある」と答えた女性が82%だったのに対して、男性は52%だったという。
違和感を抱いた表現
それでは、どんな表現に違和感を抱いたのかというと。
内容
- 女房役
- 行政マン
- イクメン
- イケメン
- 美人〇〇(美人アスリートなど)
- 女優
- 女性議員
- 女子大生
- 商品紹介記事に女性の写真を添える
- 男女の割合は気にするのに多様な性の存在を考慮していない
続いて、自由記述欄。男性が多数いるメディア業界の管理職の組織改革についての記述。
内容
- 偏った見方や旧態依然の考えしかできない人は昇進しないようなシステムを
- 権限のある女性を増やす努力をメディア全体でするべきだ
詳細を語る前にとりあえず、ひとこと言っておきたいので申し上げる。
「偏った~」の記述をした人間、男性か女性かは知らないが、その言葉そっくりそのままお返しする。
他人の様子を都合よく語るのは自由だが、まずは鏡に映る自分の姿をよく見ることだ。
男尊女卑
日本の話で言えば、いわゆる男尊女卑というのものが古い時代にはまかりとおっていた。
例えば、一番容易に想像できるのは、夫婦間での「男はこうあるべき」「女はこうあるべき」という考え方。
男は汗水流して家族のためにカネを稼ぎ、女は子供を抱えて家を守る。
つまり、外に出て仕事をするのは男、家の中で家事や育児をするのは女という考え方だ。
無論、こんなものは昔であろうが今であろうが、あってはならない。
男性向き・女性向き
とはいえ、残念ながら向き不向きというものはある。
例えば「力」。
一般的に、単純な力というものは男性のほうが優れている。
というのも、男性のほうが筋肉がつきやすく、女性のほうが脂肪がつきやすい。
これは理屈ではなく、身体の構造上そうなっているのだから仕方がない。
では、このような身体の構造の違いはどうして存在するのか。
それは太古の昔にさかのぼることで明らかになってくる。
狩猟でその日の食べ物を確保しなければいけなかった時代。
役割分担は大きくふたつあった。
ひとつは獲物をとらえるために走り回り、手製の武器で獲物を仕留める。
狩猟には必然的に力と集中力が必要になる。
一方で、獲物を捕らえるまでの間、家を守り、子供を育てる。
子供を宿して育てるために必然的に母乳と慈愛が必要になる。
筋肉があるほうが力を発揮できる。獲物を捕らえることひとつだけを考える集中力があるほうが確実に仕留められる。
これは身体の構造上男性が向いていた。
子供を体内に宿し、生み、母乳を与えて慈愛を持って育てる。
これは身体の構造上女性が向いていた。
生物学的に見れば、このように役割分担をするほうが円滑に回るからそうしただけだ。
これは身体構造上の違い・差であって差別ではない。
だが、この古くからの生物学的な役割分担を引きずり、自分の都合のいいように受け取って「男はこうあるべき」「女はこうあるべき」と唱えることは差別だ。
男性から女性に向けたものであろうと、女性から男性に向けたものであろうと差別だ。
女尊男卑も差別
さきほどのアンケートの話に戻そう。
ここまでの話を踏まえると、男尊女卑と取れるジェンダー表現のアンケート結果に対していくつかの疑問が残る。
疑問点
- 男女比率の違いによる明確な区分化
- 女性にしかない柔らかさ
- 多様な性の存在ってなんだ?
- 女尊男卑も立派な差別
- 権限のある女性を増やす努力ってなんだ?
- そもそもなんでいまさら?
ひとつずつ取り上げて解説する。
ひとつめ。あるふたつの対象があって、一方が多数であれば、もうひとつの少数のほうに分かりやすい表現を加えるのは当然のことだ。
例えば、女子アナウンサーとは言うが男子アナウンサーとは言わないのは、ジェンダー表現ではない。
ふたつの表現を分かりやすくするために、男女比少数派の女性のアナウンサーの頭に「女子」という冠詞をつけているだけだ。
仮に、多数派の男性アナウンサーを男子アナウンサーと呼び、少数派の女性アナウンサーを「(女子)アナウンサー」と呼ぶとややこしくなる。
「アナウンサー」と言えば「ああ、男性だな」、「女子アナ」と言えば「ああ、女性だな」とすぐに判断しやすくもある。
一般的にコーヒーと言うと「ホットコーヒー」であり、ホットよりも注文数が少ないアイスコーヒーを「アイス」と呼んで区別するのと大差ない。
例えば将来的に女性アナウンサーのほうが多くなれば、女性アナウンサーを「アナウンサー」、男性アナウンサーを「男子アナ」と呼称することになる。
ふたつめ。男女の向き不向きというものがある。
商品紹介記事に女性を載せることが多いのは、一般的に女性のほうが表情が豊かで印象が柔和だからだ。
例えば、老若男女問わず、第一印象で笑顔の写真により多くの好印象を持つのは女性。
屈託なく、温かで柔らかな物腰を感じさせ、より明るいイメージを持ってもらえるのが女性の場合が多いから。
これは協調性や共感と言った「和やかさ」に重きを置いてきた女性の歴史から成るもの。
そういった女性の優れた特性を生かさない手はない。これもジェンダー表現ではない。
みっつめ。「多様な性の存在」と言っているが、果たして当の本人はそのことについてどれだけの見識を持っているというのか。
知っているのもせいぜいレズビアン、ゲイ、バイセクシャルくらいなのではないか。
自分の目の前にスカートをはいた男性や、性別違和を覚えて性別適合手術を受けた人が立っていたとき、本当に多様性を認めて受け入れることができるのか。
ジェンダーや多様性(ダイバーシティ)は、世論に流されて仕方なく取り組むものではない。
そのものの本質を知らずして取り組むことなどできるはずもない。
よっつめ。男尊女卑の考え方が浸透し、これではまずいと方向転換するのは非常にいいことだ。
しかし、その過程で男性をさげすむような見方をしているのであれば、それはれっきとした差別だ。
例えば、セクハラと聞いて「女性が被害者」だというイメージを持つ人がいるのであれば、これは女尊男卑であり、許されるものではない。
性的な嫌がらせを受けるのに男も女もない。
男尊女卑を根絶するのは大事だが、行き過ぎればそれもジェンダー表現だ。
いつつめ。権限のある女性を増やす努力ってなんだ?
それはなんのためにする努力なのか。甚だ疑問。
権限のある女性を増やして男女比率を同じくらいまで引き上げればすべて解決するという意味なのか。
一般的に、論理的思考は男性脳が向いている考え方。感情的思考は女性脳が向いている考え方。
無論、議員などのお堅い仕事であれば、論理的思考が求められる。
反対に、保育や看護など、人の心と接し、うまく寄り添う必要がある仕事であれば、感情的思考が求められる。
双方に有利不利や優劣はない。それぞれの仕事に適した人材を送り込むというだけの話。
もう一度言うが、有利不利や優劣ではない。
あると思っている人がいるのであれば、それこそがジェンダー表現だ。
もちろん、男性脳に近い女性もいれば、女性脳に近い男性もいる。
だからこそ、男女比を等しくすれば済むような簡単な話ではない。
話の本筋から大きく外れている。
むっつめ。女優・女性議員・女子大生・・・。現代で万人が当たり前のように使うこの表現。
なぜ今さらこのタイミングでつまみ上げたのか。
ジェンダーや多様性は流行り事で取り上げるべきものではない。
よく考えてほしい。
どの項目にも共通することだが、あーだこーだ言っているのは誰だろうか。
よくよく見てみれば、ジェンダー表現だなんだと騒いでいるのは渦中の当事者ではなく、外野なのだ。
「私は女優ではない。俳優だ。ジェンダー表現はやめろ。」・・・女優のそんな発言、聞いたことがない。
「美人アスリート」。きれいだと言ってくれている。けなしているわけじゃない。文句をつける理由がどこにある?
「イケメン」。かっこいいと言ってくれている。けなしているわけじゃない。文句をつける理由がどこにある?
「女房役」。投手の潜在能力を最大限に引き出すリードをしている捕手を、夫をうまくリードする妻に見立てている。品のある表現だと思うが。
「女房役」という表現が適切でないというのなら、誰もが納得する適切な表現とはなんなのか。
国会議員の野党よろしく、直接関係のない人間が、外野からヤジを飛ばすだけ飛ばして、ずらかる。
このアンケートに答えた人間の行為は、ただのヤジに相違ない。
ひねくれた受け取り方をするのがそんなに好きですか?
現代で、いや、たった今このとき、本当に必要とされているのは素直さではありませんか?
みなさんはどう思うだろうか?