メンタリストDaiGo氏が投稿した、とあるYoutube動画が炎上しているようだ。
事のなりゆきを理解した上で言わせてもらうと「違和感しかない」というところ。
それどころか心に響くものはなく、疑問符が浮かぶような動画ばかりなのだ。
もちろん、違和感はDaiGo氏の発言に対してだが、それに反応した視聴者の発言も同様だった。
コンテンツ
何が一番よくなかったのか?
他のDaiGo氏の動画も拝見したが、 私からすればそもそもどの話も発言の軸がズレているので、問題の動画だけがどうこうということではない。
それはさておき、問題の動画で一番よくなかったのは「命に自分の価値・優劣をつけたこと」であるはずだ。
命に優劣をつけるつもりはないと言いながら、自分が好きなネコの命とホームレスの命を天秤にかけ、ネコの命のほうが大切だと言ったこと。
社会人としての義務を果たしているかどうかとか、貢献しているのかどうか、優生思想がどうだとか、そんなものは正直まったくもって関係がない。
そのものの大きさや数に関係なく、命は等しく大切なもの。
生命倫理という視点から考えて、同氏が異常な思想の持ち主だと言わざるを得ない。
また、彼と論点を同じくして賛否を唱えている視聴者側にも非があると言えるだろう。
際立つ異常性
同氏は、「動画内の発言はエンターテインメントであり、その区別がつかない人間は観るな」とまで言っている。
エンターテインメントとは大衆娯楽だ。
バッドボタンが大多数だったあの動画に娯楽性はあるのか。
あの動画によって一体どれだけの人が「楽しめた」と感じたのか。
首をかしげずにはいられない大きな矛盾点だ。
辛口の動画をアップすることで注目を浴びようという意図は私でも分かる。
実際今回の動画においても多数の人が反応し、賛否を唱えている。
その世論を横目に、新たな動画をアップし、さらなる注目度アップを狙っている。
基本的に、誰が何を思おうとそれはその人の自由なのだ。
それがどんなに過激なものであったとしてもかまわないと思う。
ただ、思うだけではなく言葉に表すときには考えなければならない。
特に彼の場合、多くのユーザーがいて、自分自身のコミュニティも形成しており、非常に大きな影響力を持つインフルエンサーと言える。
だったらなおさら。
地面に掘った穴に思うがままに言葉を吐き出すがごとく、何も考えずに動いたときの影響力というものを考えなければならない。
心に響かない理由
なぜ彼の発言はこんなにも私の心に響かないのか。
3つほど理由が浮かんだ。
心に響かない理由
- 自分理論の正当化
- 信念のなさ
- 内面の幼稚性
自分理論の正当化
彼の中には自分が主張したい事柄があって、それを正当化するためにはどうすればいいかを考えているため。
正当化のためには手段は選ばない。
ときに彼自身が身につけた本の知識などを駆使して、そのときの自分の主張を後押ししてくれるような事柄を選んで武装する。
ときに「このインフルエンサーもこう言っている」と真実味を持たせ、隠れミノにする。
彼の過激な発言は、彼自身の独創的な考えであり、説得力のあるものだと思いがち。
しかしその実、自分の言いたいことに都合のいい証拠を寄せ集めているにすぎず、本人の意志が感じられない。
結果、論破というよりは、自分の言いたいことに対してガチガチに武装して固めているだけに過ぎないのだ。
信念のなさ
そんなわけで、本人がどういうつもりであれ、結局は「自分の主張を押し通したい」という承認欲求のみで動いているだけなので、そこには信念がない。
自我のない承認欲求のみの主張には、その人本人の「考え方」というものが表れにくい。
もう少し分かりやすく解説する。
「これぞまさにDaiGo氏の発言」「この考え方がなければDaiGo氏ではない」というものを感じられるかどうか。
確かに彼の狙いどおり、彼の発言には多くの人を引きつけるだけの話題性がある。
しかし、そこに焦点を当てすぎたがために何が起きたか。
彼自身の信念が感じられないものになってしまった。
炎上商法やあおりによって生まれた話題性の中には、得てして炎上させた本人の「軸になるもの」が感じられなくなるものだ。
内面の幼稚性
前項で 『「自分の主張を押し通したい」という承認欲求のみで動いているだけなので、そこには信念がない。 』と申し上げた。
これ、何かに似ていないだろうか。
ほしいものが目の前にあるのに、それが思い通りに手に入らなかったとき、ダダをこねる。
そう、子供によく見られる光景だ。
「ほしい」という純粋な欲求であり、その人のベースにある考え方が機能しているわけじゃない。
DaiGo氏が自分の主張を押し通すときに使う理由についてもそうだ。
彼自身が身につけた本の知識や、インフルエンサーの考え方の中から都合のいい証拠を寄せ集めていると先ほど申し上げた。
主観的な根拠よりも客観的な根拠のほうが真実味があり、賛同が得られるからそうしている。
それは見るからに明らかなのだが、裏を返せばそこには自分の意見や考え方は何もない。
あたかもゴシップ記事のような。
つまり、根底の動機自体が注目を集めること。
そこに主観的な意見は不要だからだ。
また、主観的な意見を述べるということは、それなりの批判も覚悟しなければならない。
多くの人にはそれに耐えうるだけの精神力がDaiGo氏にはあるように見えているだろう。
しかし、私からすればどう考えても虚勢を張っているようにしか見えない。
心の奥底の不安や焦りを感じながらも、武装することによってひた隠しにしているように映るのだ。
多様性をつぶす多様性
先日私は、この記事に関連するところでこんなリプライをしている。
いわゆる「多様性」という言葉に引っかけて書いたものだ。
こんな世の中なので、様々な人が存在している。増えすぎている。
だからこそ、その存在を多様性として認める姿勢が大切になってくる。
そういう意味でDaiGo氏はそのど真ん中をいく人なわけだ。
多様性と多様性の容認が叫ばれている中で、多様性の代表とも言うべき彼が、環境などの様々な理由でそれぞれ存在している「ホームレス」というカテゴリの人たちを言葉でぶっつぶす。
多様性の中でもおそらく多くの人に認識されているカテゴリの人たちを。
社会人としての義務(納税など)も果たしていない人はどうでもいい存在だと。
ここで、ひとつ大切なこととして日本のみなさんに知ってほしいのは。
人は人として生きる権利がある。基本的人権。生存権。この個人の尊厳を犯すことは誰であっても許されない。
社会人かどうか。義務を果たしているかどうか。それは関係ない。
お互いを人間として尊重するという、あったりまえのこの法原理をぶっつぶすことなんて許されていないのだ。
多様性に関連する記事はこちら。合わせてどうぞ。
→アメリカ式の多様性を見る【他人を尊重できないなら出ていけ】
理解はしなくてもいい。ただこういう人がいるって認識できるだけでいい。
実際のところ、ホームレスに関して何か助けになりたいとか、私はそんな大それたことは考えていない。
資本主義である以上、格差は生まれる仕組みなのだから。
ただ、間違いなく言えるのは。
生きてるんだよ。自分と同じように。同じ人間として。
必死に生きようとする同じ人間同士。一体誰が後ろ指をさせるというのか。
気に入らないなら気に入らないでいい。
なぜそれをあえて言葉にして、命にランクをつけるような、生きることを邪魔するような行動に走るのか。
せめて静かに生きさせてやってくれよ。
それすらもできずに多様性が多様性をつぶすということが現実に起きているのが日本なんだなと思った。
DaiGo氏は別動画でこんな内容のことも語っている。
「LGBTに偏見はない。LGBTの友達がいるから。」
もし彼にホームレスの友達がいたら、あの発言はなかったということになるのか。
どうやら彼はいきすぎたご都合主義の人間らしい。
あなたのとなりにいる誰かがLGBTでも、ホームレスでも、障害者でも。
必死に生きている人間同士だということを、どうか忘れないでほしい。